2009年07月03日

総合物流国内最大手で

日本通運株式会社(にっぽんつううん、Nippon Express Co., Ltd.)とは大手物流業者および旅行業者である。総合物流国内最大手で、業界唯一の災害対策基本法における内閣総理大臣指定機関。

1937年10月1日 に戦時中の経済統制の一環として戦時物資を円滑供給するため、自動車(トラック)を用いて鉄道貨物の集荷・配達業務を行う全国の通運業者を統合して日本通運法のもとで国営企業として発足した。

戦後、1950年に日本通運株式会社法を廃止する法律が施行され、民間企業として再出発した(各地の旧日通系業者は「赤丸に白抜きの旧字体“通”」マークを共通使用している)。その経緯からか、旧国鉄の流れを残す会社である。
学力向上!漢字王国
白い花の花言葉
北の国・北海道マップ
暮らしの知恵袋
ラファエロのタレントになる学校選び
ハンズの野球のツボ
マーメイドの地図探し
ゆかいな塾の先生
炎神でアニメソングメドレー追跡
懸賞の秘密ちゃんねる
健康一番玉手箱
Carタイムへ急げ
芸能界デビューのチャンス
ひだまりの湘南ビーチ
奥様ご用達ご当地グルメ
仕事探しはここからスタート
初心者の投資問題解決!
姉妹の温泉三昧
フラッシュのオーディション参加
省エネルギーのコツを紹介
生活費の節約法
ドライブ計画サポートスペシャル

また、一般には引越し王日通で知られ、かつては、宅配便サービスの「ペリカン便」(コンビニエンスストアでは、日通時代は「am/pm」、「デイリーヤマザキ」、「アンスリー」などで取扱い(JPEX移行後については、一部は、併売していたゆうパックに一本化したチェーンもあったため、現状は不明)。インターネットポータルサイト「Yahoo! JAPAN」を通じてネットによる集荷受付も実施)でも知られており、業務車両にもその名の通りペリカンが描かれていた(JPEX譲受直後の時点では、社名やフリーダイヤル番号を新たなものにシールでマスクしただけで、JPEX塗装に塗り替えていない車両も相当数残存している)が、2008年6月、JP 日本郵便と宅配事業を統合し、新会社”JPエクスプレス”をJP主導で設立することになり、また宅配事業ブランドも旧郵政省(官営時代の”郵便局”)時代から続いている「ゆうパック」に、いったんは決定していたが、システム移行に手間取ることから、2009年4月より、JPエクスプレス宅配便・「ペリカン便」として、JPエクスプレスの暫定ブランドとなった(このため、日通での宅配便事業は、日通航空扱いのスーパーペリカン便など、ごく一部に限定されることになった)。2009年10月からは、新ブランドによる「JPエクスプレス宅配便」(ブランド名は未定)が開始される予定となっている。

2009年06月13日

酒造好適米など、特定の品種を原料米の50%以上

国税庁の清酒の製法品質表示基準による任意記載事項は、以下のとおり。

原料米の品種名
酒造好適米など、特定の品種を原料米の50%以上使用した場合、品種名とその使用割合を表示することができる。
清酒の産地名
単一の産地で製造された場合、産地名を表示することができる。
貯蔵年数
一年以上貯蔵・熟成された清酒には、貯蔵年数を表示することができる。酒造メーカーによっては、1年以上熟成した酒に古酒・古々酒・大古酒・熟成酒・秘蔵酒などの名称を冠して販売することがあるが、年数と用語に関する統一された基準はない。
原酒
上漕後、割水もしくは加水調整(アルコール分1%未満の範囲内の加水調整を除く)をしない清酒。
生酒
製成後、加熱処理もしくは火入れを一度もしない清酒。牛乳などと同様に生もので劣化しやすいので、鮮度には注意が必要であり、冷蔵保存する必要がある(参照:#「生酒」の問題点)。
生貯蔵酒
製成後、火入れをしないで貯蔵し、製造場から移出する際に火入れした清酒。貯蔵期間については規定されていない(参照:#「生酒」の問題点)。
生一本
単一の製造場のみで醸造した純米酒。
樽酒
木製の樽で貯蔵し、木香のついた清酒(瓶その他の容器に詰め替えたものを含む)。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用
掃除秘伝

その他の表示 [編集]
生詰酒
生貯蔵酒とは逆に、製成後、火入れをしてから貯蔵し、製造場から移出する際には火入れを行わない清酒(参照:#「生酒」の問題点)。
ひやおろし
冬季に醸造した後に春・夏の間涼しい酒蔵で貯蔵・熟成させ、気温の下がる秋に瓶詰めし出荷された清酒。本ページ「ひやおろし」参照。
以下3項目は、上槽時に搾りが施されている間の時期(前期・中期・後期など)で分類されるが、明確な基準はない。

荒走り(あらばしり)
上槽時、すなわち槽という搾り器を使って醪(もろみ)をしぼるときに、最初にほとばしるように出てくる部分の酒のこと。圧力を加えないで、最初に積まれた酒袋の重みだけで自然に出てくるもの。一般に固形分である滓(おり)が多く、アルコール度は比較的に低めで、香りも高く切れ味が良い。
中取り(なかどり)・中汲み(なかぐみ)・中垂れ(なかだれ)
上槽時、荒走りの次に、中間層として出てくる部分。アルコール度や味は、ほどほどの中間点。味と香りのバランスが最も良い、あるいは荒走りより練られた味だ、とも評される。厳密には、この中取り、もしくは中汲み、中垂れという一つの段階の中にも、酒袋が槽いっぱいになるまで積まれたときに酒袋の山の自重で出てきたものと、自重に加えてさらに圧力を掛けたときに出てきたものの二段階がある。
責め(せめ)・押し切り(おしきり)
上槽時、最後に出てくる部分。特に槽搾りにおいて、圧搾して出てきた部分。アルコール度は高く、かなり練られた濃い味。
袋吊り・袋しぼり・雫しぼり・首吊り
上槽時、もろみを袋に詰め、袋を吊り下げてそこから垂れてくる酒をとる方法。出品酒などの高級酒に多く用いられる。こうして採られた酒は雫酒(しずくざけ)と呼ばれることもある。
斗瓶取り・斗瓶囲い
上槽時、出てきた酒を斗瓶(18リットル瓶)単位に分け、そこから良いものを選ぶ方法。出品酒等の高級酒に多く用いられる。
無濾過
活性炭濾過による香味調整をしない酒。
にごり酒・おりがらみ
にごり酒は、上槽の際に粗い目の布などで濾して、意図的に滓を残したもの。火入れをしない場合は瓶内部で発酵が持続し、発泡性のものになる。おりがらみは、滓下げをしないままのもの。どちらも、滓に含まれているや旨み、醪独特の濃厚な香りや味わいを楽しむために作られる。
地理的表示
国税庁の地理的表示に関する表示基準を定める件により、国税庁長官の指定を受けた地域において表示できる。産地の特長を生かすよう原料や製法等が制限される。また、この指定を受けると、他の地域で製造された清酒での類似表示(「○○風仕込み」「○○式清酒」)が禁止されるため、地域ブランドを保護できる。これらの理由から活用が期待されているが、2008年3月現在、日本酒では白山(白山菊酒、石川県白山市、2005年12月指定)のみがその指定を受けている。

2009年06月09日

畠山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は

畠山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である。(後述)読みには他に「はたやま」もある。
海外留学 スポット サプリ 就職 ダイエット 資産運用 占い ぜん息 興信所 整体 乗物 教育 雑貨 ステイ 旅館 美容室 北海道東北 矯正 雇用 介護 旅行代理店 ローン 健康 仏壇 抜け毛 冠婚 家庭教師 園芸 語学 遊園地 若返り 関東 国内 理容 フランチャイズ 矯正 就職 料理 健康 マッサージ 抜け毛 おもちゃ 教材 観光 資格 交通 美容室 金融 化粧品 建売

坂東八平氏の一族・秩父重弘の子である秩父重能が武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て畠山姓を称したことに始まる。治承・寿永の乱において、その子重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。
重忠はのちに北条時政と対立し、武蔵国二俣川で北条義時の軍との戦闘で敗死した。その後、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人(北条時政女)と婚姻し、重忠の旧領と畠山の名跡を継承した。義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲けていたが、その妻子を義絶した上での継承であった。これによって桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れを汲む元祖畠山氏は消滅し、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなった。
義純の家系(足利系畠山家)は名門・畠山家の名跡を継承したことから、後に足利一門の家臣筋分家の中で斯波家に次いで高い序列に列せられ、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受けることになる。

紀伊および河内・越中の守護をおおむね務め、分家は能登守護を務めた。

2009年04月25日

モルダヴィア

モルダヴィア(Moldavia、ウクライナ語:Молдавія、ロシア語:Молдавия、ルーマニア語:Moldova、モルドバ語:Молдова)は、東ヨーロッパの一角を占める地域の名称である。ルーマニアの東北部、すなわちカルパティア山脈の東、プルート川の西で両者に挟まれた地域にあたり、時にはルーマニア領を越えてプルート川の東にあるドニエプル川を西限とするベッサラビア地方を含めた、さらに広い地域を指す。

ジュラルミンショッピング買物COM
ビジネススクール・セミナー関連学習対策ネット
デートスポット・地域産業関連宿泊タウンネット
シエルフ美容・コスメショップ総合
モンキープランツ マネー経済ガイド
オヒメ生活紹介ナビ
アン・リーブル健康・医学倶楽部サーチ
スタディ買物王紹介
セミナー・パソコン教室関連教育対策全国情報ガイド
交通地図・海外・国内関連旅行タウンネット

中世に建国されて現ルーマニア領モルダヴィアとベッサラビアを支配したルーマニア人の国家モルダヴィア公国の領有した地域であり、21世紀においてはルーマニア領のほか、モルドバ領とウクライナ領に分かれる。

モルドバ共和国(モルドヴァ共和国)の国名となっているモルドヴァ(Moldova)は、モルダヴィア(Moldavia)のルーマニア語・モルドバ語における名称である。モルドバ共和国は、ソビエト連邦の構成国であった時はモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国を国名としていた。

スラブ人、ハンガリー人、タタール人など様々な民族の支配を経て、ルーマニア人がこの地域にモルダヴィア公国が成立したのは14世紀の中頃であった。一般には、ルーマニア人の公(ヴォエヴォド)ボグダンがハンガリー軍を破った1359年がモルダヴィア公国の建国年と考えられている。

歴代のモルダヴィア公は有力な貴族の間の抗争に悩まされながらも15世紀の間に勢力を拡大し、北上してきたオスマン帝国の勢力と戦ったが、16世紀初頭にその宗主権を認めてオスマン帝国の属国になった。オスマン帝国の支配下でモルダヴィア公国は自治を認められ、大貴族によって選挙された公がオスマン政府の公認のもとで統治を行い、ルーマニア人貴族の勢力は残された。

18世紀に入ると、オスマン帝国と戦線を開く実力を蓄えたロシア帝国は、同じ正教徒の国であるモルダヴィアに対して正教徒の保護を名目に領有権を主張し始め、ピョートル1世は1711年にオスマン帝国に宣戦布告してモルダヴィアを一時占領した(この時オスマン帝国は、大北方戦争に参戦していた)。このときモルダヴィア公ディミトリエ・カンテミールがロシアに抵抗せず降伏したことに脅威を感じたオスマン帝国は、1711年プルート川においてロシア軍を撃退し(プルート川の戦い)、モルダヴィアを奪い返した。これ以降モルダヴィア公をオスマン中央政府に仕えるギリシャ人官僚(ファナリオティス)から選んで任命するようになり、1822年までファナリオティス支配が続く。その後も続くオスマン帝国の衰退の結果、モルダヴィア公国北部のブコヴィナ地方はオーストリア帝国に、北東部のベッサラビア地方は1812年ロシアに割譲された。

2009年04月08日

松原みき

松原 みき(まつばら みき、1959年11月28日 - 2004年10月7日)は歌手、作詞家、作曲家。大阪府堺市西区平岡町出身、血液型O型。「スージー・松原(すーじーまつばら)」という芸名を用いた事もある。

1959年11月28日大阪府岸和田市に生まれ、堺市西区平岡町で育ち、幼少期を過ごす。1972年に堺市立平岡小学校からプール学院中学校に入学。国鉄阪和線を利用して通学していた。この頃よりロックバンド「愚麗」に加入し演奏活動を始める。1975年プール学院高校に進学。「吉野家バンド」のキーボーディストとして京都のライヴハウス磔磔(たくたく)で活動。

1977年高3の時に歌手デビューのため上京し、文化女子大学附属杉並高等学校に転校。米軍キャンプなど各地で演奏し、六本木のジャズスポット「バードランド」に飛び入りしたところを世良譲に絶賛される。


デビュー以後 [編集]
1979年11月5日にファーストシングル「真夜中のドア〜Stay with me」でデビュー。複数の新人賞を受賞した。以降1991年1月21日までにカップリング曲を含むシングル17枚、ベスト盤を含むアルバム15枚を発表。全国各地で演奏活動を展開した。


歌手活動休止、作曲活動開始以後 [編集]
1990年代以降は歌手としての活動を休止、CMソングやアニメソングなどを中心とした作曲家として活動した。特に、1997年にNHK『みんなのうた』で放送された國府田マリ子の『雨のちスペシャル』は話題を集め、2004年まで繰り返し再放送された。

2001年にがんを告知され、すべての音楽活動を休止し闘病生活を送っていた。2004年10月7日、子宮頸癌のため44歳で死去。

1980年代後半に元ドラマーで歯科医の本城真樹と結婚していた。

作品 [編集]

シングル [編集]
真夜中のドア?Stay With Me (4'34")
作詞:三浦徳子/作曲:林哲司/編曲:林哲司
そうして私が (4'08")
作詞:三浦徳子/作曲:林哲司/編曲:林哲司
(出典:EP W-17 SEE・SAW 1979.11.5 キャニオン・レコード)
愛はエネルギー
作詞:三浦徳子/作曲:林哲司/編曲:林哲司
西友キャンペーンソング
Fancy Free
作詞:中里綴/作曲:芳野藤丸/編曲:芳野藤丸
(出典:EP W-18 SEE.SAW 1979.12.5 キャニオン・レコード)
ハロー・トゥデイ?Hello Today (4'20")
作詞:三浦徳子/作曲:大村雅朗/編曲:大村雅朗
街はいつもパーティね (3'43")
作詞:三浦徳子/作曲:大村雅朗/編曲:大村雅朗
(出典:EP W-20 SEE.SAW 1980.4.21 キャニオン・レコード)
あいつのブラウンシューズ
作詞:島エリナ/作曲:杉真理/編曲:鈴木茂
今日この頃
作詞:島エリナ/作曲:林哲司/編曲:林哲司
(出典:EP 7A0010 SEE.SAW 1980 キャニオン・レコード)
ニートな午後3時 (4'07")
作詞:三浦徳子/作曲:小田裕一郎/編曲:大村雅朗
資生堂 '81春のキャンペーンソング
Twinkle Twinkle Starlight ―三日月形の犬をもとめて― (4'38")
作詞:松原みき/作曲:松任谷正隆/編曲:松任谷正隆
(出典:EP 7A0049 SEE・SAW 1981.2.5 キャニオン・レコード)
倖せにボンソワール Bonsoir L'amour
作詞:三浦徳子/作曲:小杉保夫/編曲:飛澤宏元
私はもどれない
作詞:三浦徳子/作曲:佐藤健/編曲:大村雅明
(出典:EP 7A0088 SEE・SAW 1981.7.5 キャニオン・レコード)
Jazzy Night
作詞:三浦徳子/作曲:林哲司/編曲:林哲司
愛はエネルギー
作詞:三浦徳子/作曲:林哲司/編曲:林哲司
(出典:EP 7A0141 SEE・SAW 1981.12.5 キャニオン・レコード)
SEE-SAW LOVE
作詞:小泉長一郎/作曲:佐藤健/編曲:Dr.Strut
WASH
作詞:康珍化/作曲:佐藤健/編曲:Dr.Strut
(出典:EP 7A0157 SEE・SAW 1982.2 キャニオン・レコード)
予言
作詞:パンタ/作曲:濱田金吾/編曲:後藤次利
サラダ ★ SALAD
作詞:西尾尚子/作曲:松原みき/編曲:後藤次利
(出典:EP 7A0218 SEE.SAW 1982.9.21 キャニオン・レコード)
Paradise Beach(ソフィーのテーマ) (3'38")
作詞:松本隆/作曲:細野晴臣/編曲:細野晴臣
日立マクセルビデオカセットキャンペーンソング
気まぐれコラージュ (4'33")
作詞:竜真知子/作曲:Dr.Strut/編曲:Dr.Strut
(出典:EP 7A0272 SEE・SAW 1983.4. キャニオン・レコード)
Sweet サレンダー
作詞:田口俊/作曲:山川恵津子/編曲:鷺巣詩郎
WANGAN High Way
作詞:田口俊/作曲:佐藤健/編曲:鷺巣詩郎
(出典:EP 7A0315 SEE.SAW 1983.9 キャニオン・レコード)
Knock, Knock, My Heart
作詞:梅本洋一/作曲:森園勝敏/編曲:森園勝敏
Ice Heart ?その気もないのに?
作詞:梅本洋一/作曲:森園勝敏/編曲:森園勝敏
(出典:EP 7A0382 SEE・SAW 1984.5.21 キャニオン・レコード)
恋するセゾン ?色恋来い?
作詞:康珍化/作曲:亀井登志夫/編曲:向谷実
サングラスはもういらない
作詞:有川正沙子/作曲:向谷実/編曲:向谷実
(出典:EP 7A0496 SEE.SAW 1985.6.21 キャニオン・レコード)
サファリ アイズ SAFARI EYES
作詞:大津あきら/作曲:和泉常寛/編曲:新川博
劇場版『ダーティペア』オープニングテーマ
パ・ド・ドゥ pas de deux
作詞:渡辺なつみ/作曲:Project M/編曲:萩田光雄
同 エンディングテーマ
(出典:EP KV-3078 1987.2.21 ビクター音楽産業)
IN THE ROOM
作詞:竹花いち子/作曲:林哲司/編曲:鷺巣詩郎
女神の右手
作詞:竹花いち子/作曲:羽場仁志/編曲:鷺巣詩郎
(出典:EP SV-9348 1988.5.21 ビクター音楽産業)
(出典:CD SINGLE VDRS-1029 1988.5.21 ビクター音楽産業)
THE WINNER
作詞:安藤芳彦/作曲:都志見隆/編曲:萩田光雄・都志見隆
『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』前期オープニングテーマ
GUNDAM 0083前期エンディング・テーマ「MAGIC」カップリング曲
(出典:CD SINGLE VIDL-41 1991.1.21 ビクター音楽産業)

大和撫子 きゃく サバンナ スキニー 情熱支援 ジャング ナリー ハンドカ ヒットパレ シリング ファンキー サーモス カペラ サラリー ニッケ フリフリ シュプネ ルサン レセプト パング テーション ジェロ スイス イライン おりあお パラシ バーゼル 夢街道 桜雨1押 ノート ワスレ どんしゅう プリン ジャスラック レア日本 永遠偉 白い街 パイロット ブイディ ストーブ チャウダ トカラ 管弦 アビブ スター スティック オモ モカ モンタナ ほうすう

2009年03月24日

北陸鉄道モハ2200形電車

北陸鉄道モハ2200形電車(ほくりくてつどうモハ2200がたでんしゃ)は、当初北陸鉄道(北鉄)が同社金沢市内線用に製造した路面電車車両。後に名古屋鉄道(名鉄)に譲渡され岐阜市内線でモ560形電車として使用された、うち1両はさらに廃車後に福井鉄道(福鉄)へ譲渡され、560形電車となった。

北陸鉄道(1956?1967年) [編集]
本車両ははじめ、北陸鉄道金沢市内線用のモハ2200形として、1956年に日本車輌製造で6両が製造され、同線に投入された。モハ2000形と異なり、張上げ屋根を採用している。

しかし1967年の同線廃線によって余剰となり、モハ2000形と共に名鉄に売却されることになった。このとき、本車両はモ560形と改番された。

名鉄(1968?1988年) [編集]
名鉄岐阜市内線の伊奈波通?長良北町間には急曲線区間があり、モ570形などのボギー台車車両が投入できず、単車が使用されていた。モハ2200形改めモ560形はモハ2000形改めモ550形と同様、ボギー台車を採用しながらも車長が短く車幅も狭かったことから、単車を置き換え、同区間近代化の役割を果たした。

しかし、1983年に老朽化のため3両が廃車され、残りも岐阜市内線徹明町?伊奈波通?長良北町間が廃止された1988年に廃車となり、名鉄での使用を終えた。

なお、機器の一部はモ590形のワンマン運転改造用に転用されている。

福井鉄道(1989?2006年) [編集]
その後、1989年に福井鉄道へモ562の1両が売却された。当初は福井市制100周年記念事業の一環として、福武線の軌道線(路面電車)区間での専用車両として、同年1月1日から1月12日まで運行された。それ以降は主としてイベント運行に使用された。

2001年10月?11月には、名鉄から貸与されたモ800形と共に、福井駅前のトランジットモール実験で使用された。

実験車両として
福井鉄道では、2004年11月に福井大学と大研化学工業が新型のリチウムイオン電池を使用した公開実験を実施し、その実験車両として560形が使用された。

引退後の状況 [編集]
本車両は、2006年3月に廃車となり、引き取りが無ければ解体される予定であった。これに対し、石川県金沢市のジェイアール貨物・北陸ロジスティクスが保存を申し入れ、保管されることになった。車両は2006年8月11日に金沢市に移送され、正式な保存先が確定するまで、同社が保管しながら原型への復元作業を行っている。

トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

2009年03月08日

江戸川乱歩の美女シリーズ

江戸川乱歩の美女シリーズ (えどがわらんぽのびじょシリーズ)はテレビ朝日系列の『土曜ワイド劇場』で1977年から1994年までの17年間放送されていたドラマシリーズ。
リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

従来テレビでは子供向け作品の映像化が多かった江戸川乱歩作品を大人向け作品に絞って映像化し、トップ女優の官能的な演技とヌードシーン(主に入浴シーン。主演級の女優のヌードの多くは吹き替えとされる。)を盛り込み、現代風にアレンジした。短編原作ものをはじめ、ほとんど原作の影をとどめていないオリジナル脚本同然の作品も少なくない。物語終半の、変装の名人でもある名探偵・明智小五郎が変装を解くシーン(別俳優との入れ替えによる)が恒例となっている。ベテラン井上梅次監督が大部分を手がけ、良い意味の古めかしさを湛えた独自のタッチは今なお人気が高い。また、音楽は全作品とも鏑木創が担当しているが、有名なテーマ曲は第7作目の「妖精の美女」より使用されている。製作は松竹だが、初期脚本を担当した宮川一郎をあわせ主演・監督が新東宝出身者であり、同社末期のモダニズムとキッチュ感が混合したような独自の雰囲気も引き継がれている。

天知茂が明智に扮して1977年から他界する1985年まで25作品が制作され、その後北大路欣也が2代目明智に扮し1986年から1990年まで6作品、西郷輝彦が3代目明智に扮し1992年と1994年に2作品が制作されており、作品数は全33作を数える。

ちなみに「美女シリーズ」とは別であるが、『土ワイ』ではその後、1998年と2000年に稲垣吾郎を明智役とした「名探偵・明智小五郎シリーズ」を2作品(それぞれ『陰獣』と『三角館の恐怖』が原作)制作し、さらに2005年には、松岡昌宏が明智役、長瀬智也が金田一耕助役を演じた『明智小五郎VS金田一耕助』を制作している(こちらはドラマオリジナルの作品)。「明智VS金田一」には、「妖しい傷痕の美女」というサブタイトルがつけられていた。

現在、天知茂主演の25作品が「江戸川乱歩シリーズ」としてDVD化されているほか、2009年1月7日には北大路欣也主演、西郷輝彦主演の8作品をまとめたDVDボックスが発売された。


主な登場人物
明智小五郎
数々の難事件を解決してきた、探偵の中の名探偵。
文代
明智の美人助手。原作では「魔術師」の玉村文代で、明智と結婚する。
小林少年
明智の助手。
波越警部
警視庁刑事部捜査一課の刑事。明智の親友。
恒川警部補
警視庁の警部補。明智を頼りにしている。

2009年02月20日

機動戦艦ナデシコ

宇宙及び宇宙戦艦を主要な舞台としてリアルロボットが活躍するSFアニメでありながら、ラブコメディー要素も取り入れた作品である。一見するとラブコメディー要素が強く取っ付きやすい作風だが、SF設定に関しては重厚な要素も含んでおり、伏線も何重にも張り巡らされている為読み解くのは意外に難解である。作品の起点としては、「ある意味ベタな、普通にマニアックな作品」(同作品のプロデューサーである大月俊倫が、本作の監督である佐藤竜雄にアドバイスした)となっており、放送時期が近く度々比較対象に挙げられた『新世紀エヴァンゲリオン』とは全く異なる方向性からスタートしている。漫画版でのタイトルは『遊撃宇宙戦艦ナデシコ』。
セレン ケース ルージュ データ スワップ スーパー オルグ マスイブ 碁の杯 ズッキーニ プルト ディレ ポーリア デーリー タイプ ドラゴン パスヒ バットレス ギムレ ピート トウヨ リッドカ コリー いちい パネル メタセ バンダ リファレ ブラーフ ドリティ かみいそ ひけつ ノクロス オブジェキ ヒットソ ピア ポール フルスケ ハネウェル バウチ ロスペクト レッサー アクセス ソンク ばいせん シーランド フリース しぶし レシピ ハイビ

また、この作品は細部への偏執的とも言える拘りが特徴で、その最たるものは、劇中劇として度々登場する熱血巨大ロボットアニメ『ゲキ・ガンガー3』である。専門のチームまで編成され、1970年代のロボットアニメの味を忠実に再現し、本作のテーマ性を横から強く支えるものとなっている。

物語自体は、激化する戦争の結末や古代火星文明の謎等、結局描かないまま終了。戦争の結末は、その後に公開された劇場版やゲームで補完されてゆく事になるが、謎は謎のままで残った部分も多い。脚本家として参加した首藤剛志はWEBアニメスタイル内の自コラム「シナリオえーだば創作術」にて「僕がシリーズ構成なら、100話以上は続くナデシコという戦艦を主人公……つまり、舞台が主人公という意味の集団群衆ドラマにするしかない」「映画で続編が作られたにしても、26話で終わらせるにはもったいない企画だった」と当時を振り返っている。

日本神話の神々から引用した固有名詞が数多くある。漢字の多用等、SFとしては珍しい、和風テイストの強い作品である。

関連CDが累計62万枚、ビデオ関連が累計59万本販売[1]。

続編の制作を期待する声も多かったが、2005年に監督・佐藤竜雄の公式サイトで『機動戦艦ナデシコ』と『宇宙のステルヴィア』の続編制作中止が発表された(いきさつについては明かされておらず、諸説もあるが不明)。

2006年には文化庁メディア芸術祭10周年を記念して行われた「日本のメディア芸術100選」のアニメ部門で46位に選出された。

あらすじ
22世紀末。突如として木星方面より現れた謎の兵器群木星蜥蜴(もくせいとかげ)は、圧倒的な戦闘力で火星、月の裏側を次々に制圧。今や、地球各地にもチューリップと呼ばれる母艦を多数降下させるに至っていた。

2196年。そんな中、木星蜥蜴の支配下に置かれた火星に残された人々を救うべく、民間企業ネルガル重工は「スキャパレリプロジェクト」を計画し、その要となる実験戦艦 ND-001 ナデシコの艤装を終了させていた。クルーには「能力が一流なら性格は問わない」と言う方針の下、一癖も二癖もある人物ばかりが揃えられた。

ナデシコ発進の日、火星生まれの青年テンカワ・アキトは、偶然再会した幼なじみミスマル・ユリカを追って出港直前のナデシコに乗り込む。アキトはコックとしてナデシコのクルーに採用されるが、IFS処理をしていたため、人型機動兵器「エステバリス」のパイロットとしても戦っていくことになる。

2009年02月04日

南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家

南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家。清和源氏の河内源氏の流れをくむ。
テリーヌ レーション パドック コラール ランド ブリス しし唐 レッド ダラス バスタ クロノグ ティング ドライ フルカップ ゴッド ハイド カナン シダレ りつりん ひぼう チカフ ナーバス なかふら ヨゴリーノ 高菜 ドアボーイ フレナ ユズリハ 潮の香り ブラック やしゃ オリンピピ ヤラピン イスア スラム ミラージュ ビート ワイポ クローニ オゾンホ プラン シトラス やなだに テラピア セレクト バック カイドウ バルブトゥ シティ あきう

前九年の役では清和源氏の源頼義が現在の盛岡に来歴したが、頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫は甲斐源氏と呼ばれ、南部氏、武田氏、小笠原氏、佐竹氏などに分かれた。南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなった。

鎌倉・南北朝時代
源義光の玄孫の源光行は甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に住み、南部氏を称したという。なお、光行の兄の源長清は巨摩郡小笠原荘に住み、小笠原氏の祖となっている。

平安時代末期の奥州合戦のころ、南部氏の初代当主である南部光行が奥州糠部(現在の青森県から岩手県にかけての地域)の地に土着したという。光行の移住は確証に乏しいが鎌倉後期には奥州における南部氏の活動が見られ、この時代から土着していた痕跡とされるものが三八・上北地方の習俗として残っている。旧正月12日に三八・上北地方で行われるえんぶりがそれである。

『奥南旧指録』によれば、承久元年(1219年)の暮れに南部光行が家族と家臣を連れて由比ヶ浜から出航し、糠部に至ったという。

また『吾妻鏡』によれば、南部光行が糠部に下向した最初の正月、大晦日を前にして正月の準備が全く揃わない事態となり、困った家臣が光行に相談したところ、光行の「ならば南部の正月は12日だ」との鶴の一声で、以後南部氏の正月は12日となり、南部氏においては領民共々正月は12日に祝うようになったとされ、世間においては「南部氏の私改め」と評判を呼び、それが正月の伝統行事とされたえんぶりへと継承された。このエピソードは当時の南部氏が、後の南部氏と違い、如何に弱小で困窮していたかを知る上でも貴重なエピソードでもある。

南北朝時代になると、奥州鎮撫を目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠顕家に従い、伊達行朝と共に南部氏も奥羽に下向する。

また、日蓮宗関係の史料によれば引き続き甲斐の河内地方に居住し続けている複数系統の南部一族はおり、南北朝期には南朝方と北朝方に分かれて争い、北朝方に属した一族はその後勢力を失い、南朝方に属した南部氏も南北朝合一に際して奥州へ移住し、河内地方には武田一族の穴山氏が入部したと考えられている。

陸奥へ移住すると陸奥北部最大の勢力を持つ一族に発展した。しかし、一族内の実力者の統制がうまくいかず、そのために内紛が頻発し、一時、衰退した。

戦国時代
戦国時代になると、三戸南部氏の出身で南部氏第24代当主である南部晴政が現われ、他勢力を制して陸奥北部を掌握した。晴政は積極的に勢力拡大を図り、南部氏の最盛期を築き上げた。また、晴政は外交にも優れており、中央の織田信長とも誼を通じるなどしていた。しかし、その後は家中の内紛に苦しむことになる。晴政の晩年には南部氏の一族とされる大浦為信(津軽為信)が南部氏からの独立の動きを見せ、為信に津軽地方と外ヶ浜と糠部の一部を占領され、為信は豊臣秀吉から所領を安堵されたために南部氏は元々不安定だった大浦氏の統制を完全に失うことになる。天正10年(1582年)に分家出身の南部信直が晴政、晴継父子から家督を相続した際に晴政親子が急死していることから、晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。

天正18年(1590年)、南部氏第26代当主である南部信直は豊臣秀吉の小田原の役に参陣して南部七郡の所領を安堵された。同族の九戸政実が起こした九戸政実の乱も豊臣政権の手で鎮圧され、南部氏は安定した基盤を得ることとなる。

江戸時代
江戸時代を通じて三戸南部氏は盛岡藩として存続する。分家で大名とされた家には八戸藩と七戸藩(盛岡新田藩)がある。

明治時代
明治時代になると、盛岡藩主の南部氏および八戸藩、七戸藩の2分家は華族に列せられ、明治17年(1884年)に旧盛岡藩主の南部利恭は伯爵、分家の旧八戸藩主の南部利克および旧七戸藩主の南部信方は子爵とされた。八戸氏を称していた根城南部氏(遠野南部氏)は士族となり、明治29年(1896年)に南朝の天皇への忠節を賞して特旨をもって華族に列せられ、当主の南部行義は男爵とされた。九戸政実の実弟の中野康実の系譜を引く中野氏は士族とされた。なお、八戸氏および中野氏は、江戸時代末期より南部を称することを盛岡藩主の南部氏より許され、以後、南部を称している。

南部利恭の長男で南部氏第42代当主の利祥は日露戦争で戦死し、利祥には子がなかったので、利恭の次男で利祥の弟の利淳が第43代当主を相続した。利淳には一男一女がいたが、長男の利貞は早世したために、長女の瑞子に公爵一条実輝の三男の利英が婿入りして第44代当主を相続した。南部氏の第45代当主(現当主)の南部利昭は利英の三男で、靖国神社の宮司を務めたが平成21年(2009年)1月7日死去。

なお、鎌倉時代から明治維新まで同じ所領に居続けることができたのは南部氏の他には薩摩の島津氏などごく少数で、所領が中央政権(幕府)から遠く離れていたのが理由と考えられている。

南部氏の各支族
※ 下記のほか、九戸政実の実弟の中野康実の子孫が中野氏を称して代々南部氏の重臣の地位にあった。

根城南部氏(遠野南部氏)
南部氏は多くの支族を抱えていたが、その中で南部師行は南部氏としては記録上初めて、南北朝時代に北畠顕家に従って奥州に下向した。師行は糠部の八戸の地に根城(現在の青森県八戸市根城)と呼ばれる、従前に工藤氏の拠っていた城を接収し、居城とした。師行が一時、工藤氏を称していたとの説もあるが、そもそも南部氏は清和源氏、工藤氏は藤原氏とされていることから考えると、にわかには信じがたい。

南部師行の子孫は八戸氏を称し、一般には根城南部氏と呼ばれる。従来、根城南部氏は南部氏の有力な分家として見られてきたが、近年の研究では、根城南部氏が当初は南部氏の宗家に位置付けられていたと推定されている。いずれにしても、根城南部氏は南朝を支持していたために南朝の衰退に伴って14世紀半ばからは次第に力を弱めたが、17世紀前半までは下北地方などを領有し、南部氏のなかでも比較的大きな勢力を有していた。

元和3年(1617年)には、所領のうち下北地方を、幕藩体制下で宗家としての地位を確固たるものにした三戸南部氏(盛岡南部氏)によって接収され、寛永4年(1627年)に遠野(現在の岩手県遠野市)に移される。これ以後の根城南部氏は遠野南部氏と呼ばれ、江戸時代を通じ、盛岡藩の世襲筆頭家臣であった。なお、遠野南部氏が、日蓮に帰依し身延(現在の山梨県南巨摩郡身延町)の地を寄進したとされる八戸実長(波木井実長)の子孫を称するようになるのは江戸時代後期になってからである。

三戸南部氏(盛岡南部氏)
三戸に根拠を置いた系統は三戸南部氏と呼ばれる。三戸南部氏の系譜は明確ではないが、南北朝時代に奥州に下向した南部氏の一族と見られている。従来、三戸南部氏は鎌倉時代にこの地に下向した南部氏の宗家と考えられてきた。三戸南部氏は南北朝時代には北朝を支持していたが、いつごろ南部氏の宗家としての地位を築いたのかははっきりしない。

根城南部氏も場合によっては三戸南部氏とほぼ同格の存在として見なされることがあり、戦国時代には九戸氏も南部氏一族の有力者として幕府に認知されており、少なくとも室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。根城南部氏の当主とされている南部信長が上洛して武田信虎(武田信玄の父)の世話になって室町幕府の第13代将軍足利義輝に拝謁したという記録の存在も指摘されている。

このような曖昧な状況に終止符が打たれたのは、豊臣秀吉による、いわゆる「天下統一」事業により、三戸南部氏の当主である南部信直が所領を安堵され、また津軽為信に与えられた津軽地方の代替地として閉伊郡、和賀郡、稗貫郡が与えられたころである。近世大名として同族連合を否定し、有力一族も家臣として服属することを求められたことに反発した九戸政実は信直と激しく対立する。秀吉は政実を近世的秩序である「豊臣の平和」への反逆者として全力で討伐を開始する。政実は滅ぼされ、全国的にも近世秩序を再確認する契機にもなった。

その後、居城を三戸から盛岡に移し、根城南部氏に対しては遠野への知行替を行い、三戸南部氏が南部氏の宗家としての地位を確立した。

八戸藩
近世には盛岡藩から八戸藩が分立するが、これは、盛岡南部氏の当主南部重直が、実子、養子の死後、将軍 徳川家綱に面会して後継者選定と家の存続を願い、それに基づき重直の死後に家綱が裁定して、寛文4年(1664年)12月に重直の異母弟の南部重信に2万石減封して盛岡8万石を与えて家を相続させ、同じく異母弟(重信とも異母兄弟)の南部直房に新知として八戸2万石を与え、事実上の分割相続を行った際に創立したものである。

直房の子の南部直政は、将軍 徳川綱吉の側衆を経て側用人となり、江戸時代において南部氏で唯一、幕政に参画した。重信は後に幕府に盛岡藩の高直しを願い出て、領地に変動なく、また八戸藩を含むものではなく、8万石から10万石となっている。

七戸藩
七戸藩(盛岡新田藩)は、重信以後の盛岡南部氏の分知旗本南部氏に、盛岡南部氏が更に分知を行い、幕府に願い出て分知大名としたものである。分知旗本家の創設の際、七戸藩の創設の際、いずれの分知も名目上は新田開発による打出高を当てたため(新田分知)、盛岡藩の石高に分知の前後で変動はない。

分知旗本南部氏は二家あり、共に南部重信の子を初代とする。後に七戸藩にならないもう一家は当主の南部利正が盛岡藩主となったとき、幕府に願い出て盛岡藩に併合された。

歴代当主
※ 以下は三戸南部氏(盛岡南部氏)の当主である。

南部光行
南部実光
南部時実
南部政光
南部宗経
南部宗行
南部祐行
南部政連
南部祐政
南部茂時
南部信長
南部政行
南部守行
南部義政
南部政盛
南部助政
南部光政
南部時政
南部通継
南部信時
南部信義
南部政康
南部安信
南部晴政
南部晴継
南部信直(安信弟石川高信長男)
南部利直(盛岡藩初代藩主)
南部重直
南部重信
南部行信
南部信恩
南部利幹
南部利視
南部利雄
南部利正
南部利敬
南部利用
南部吉次郎利用
南部大膳大夫利用(吉次郎利用が事故死したために身代わりとなる)
南部利済
南部利義
南部利剛
南部利恭
南部利祥
南部利淳
南部利英(公爵一条実輝の三男で婿養子、妻は利淳の長女の瑞子)
南部利昭
南部利文(利昭の長兄利久の長男)

系譜
凡例 太字は三戸南部氏(盛岡南部氏)の当主、太線は実子、細線は養子。※ 第26代当主の南部信直以前の南部氏の系譜には曖昧な部分が多く、注意が必要である。
源頼義
 ┣━━━┳━━━┓
源義家 源義綱 源義光
     ┏━━━╋━━━━┓
    源義業 源義清 平賀盛義
     ┃   ┃
   佐竹昌義 源清光
    ┏━━━━╋━━━━┳━━━━━┓
  逸見光長 武田信義 加賀美遠光 安田義定
  ┏━━━━━┳━━━━━┫
 秋山光朝 小笠原長清 南部光行1
         ┏━━━━╋━━━━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓
        一戸行朝 実光2     八戸実長 七戸朝清 四戸宗清 九戸行連
              ┃       ┃              ┃
             時実3     八戸実継           九戸連実
 ┏━━┳━━━┳━━┳━━┻━━━┓   ┃              ┃
宗経5 政光4 政行 宗実     義元  八戸長継           九戸武実
    ┏━━━┫         ┣━━┳━━┓
    師行 政長(根城南部氏) 義行 祐行7 宗行6
        ┃     ┏━━━┫     ┣━━┓
       信政    茂時10 信長11   政連8 祐政9
        ┣━━┓      ┃
       信光 政光     政行12
        ┣━━┓      ┃
       長経 光経     守行13
 ┏━━━┳━━━━━━━━━━━━╋━━━┓
義政14 政盛15          助政16 横田行長
 ┃   ┣━━━┓        ┃
東政継 光政17 時政18      信時20
 ┃       ┃    ┏━━━┫
東政重     通継19  信義21 政康22
 ┃            ┃   ┣━━━┳━━━━━━━━━━┳━━━━┳━━━━┓
東政勝          北致愛 安信23 石川高信       南長義 石亀信房 毛馬内秀範
 ┃            ┃   ┃   ┣━━━━━┓    ┃    ┃    ┃
東重康          北信愛 晴政24 南部信直26 石川政信 南康義 石亀政頼 毛馬内政次
 ┃    ┏━━━┳━━━┫   ┃   ┃          ┃    ┃    ┃
東直義  北愛清 北定愛 北秀愛 晴継25 利直27        南盛義 石亀直徳 毛馬内政氏
          ┃       ┏━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
        三戸清乗     重直28 重信29                             直房(八戸藩)
                      ┣━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┳━━┓        ┃
                      行信30              政信 勝信 通信(直政養子) 直政
                  ┏━━┳┻━━┓             |              |
                  実信 信恩31 利幹32           信弥             通信
                     ┃   ┣━━━┓         |              ┃
                     利視33 利雄34 信起        信伝             広信
 ┏━━━━━━━━┳━━┳━━━━━━━┫   ┃             ┃              ┃
信伝(信弥養子) 信駕 信周      利正35 利謹            信喜             信興
          ┃  ┣━━━━┓  ┃   ┃             ┃              ┃
          信敞 信浄   信丞 利敬36 利済38           信鄰(七戸藩)        信依
          ┃  ┃    ┃   ┏━━┻━┳━━━┓       ┃           ┏━━┫
          信也 利用37b 利用37a 利義39 利剛40 謹敦(信誉養子) 信誉         信房 信真
          ┃                ┣━━━┳━━┳━━┓                |
          信民(信誉養子)         利恭41 信方 麻子 利克                信順
                       ┏━━━┫   |     ┃                ┃
                       利祥42 利淳43 信孝    信克                栄信
                           |
                           利英44
                           ┃
                           利昭45

                           利文46
家紋
城下町盛岡を開いた南部氏の、元来の紋章である「菱」を交差させたもので、「違菱(たがいびし)」と呼ばれる。菱を二つ組み合わせた意匠は、藩政時代から既に使用されており、「盛岡を示す記号」として認められていた。一説には、後に南部氏の表紋となる「向鶴(むかいづる)」の鶴、折鶴を表現しているともいう。菱を4つ並べた紋章は「武田菱(たけだびし)」とも呼ばれ、南部氏が甲斐源氏の一族であることを示している。武田菱は、南部氏初代の南部光行の父の加賀美遠光の代から使用されており、さらにその発祥は、永承6年(1051年)に前九年の役に際し、遠光の高祖父の源頼義が住吉神社に祈願した折、神託によって拝領した楯無鎧(山梨県甲州市に現存)にあった割菱文様に由来するという。

南部氏家臣団
石川高信(南部信直の実父)
八戸政栄(根城南部氏第18代当主)
新田政盛
北致愛
北信愛
北愛清
北信景
三戸清乗
九戸政実
九戸実親
清心尼(八戸直栄の娘、直政の妻、女大名)
八戸経継(入道守頓)
長牛友義

2009年01月21日

ゴルフ(スコットランド語:Gowf,英語:Golf)

ゴルフ(スコットランド語:Gowf,英語:Golf)は、コース(Course)においてクラブ(Club)といわれる道具で静止したボール(Ball)を打ち、ホール(Hole、カップとも)と呼ばれる穴にいかに少ない打数で入れられるかを競う球技の一種。漢字では孔球と表記する。

静止したボールを打つため簡単そうに思えるが、対戦相手と打ち合う球技ではないため、精神力が重要とされ、精神力7割技術力3割とも言われている。プロゴルファーでさえ、プレッシャーのためわずか30cmのパットを外すこともある。

基本的に個人で行う球技だが、団体戦もある。個人戦の場合においても、競技者とコースを同伴するキャディがいる。キャディはクラブを持ち運びするだけではなく、競技者にアドバイスできる唯一の存在となる。名選手の陰に名キャディありとも言われる。

アマチュアにおいてもプロゴルファーを目指すのでもない限り、中高年から始めることも可能で、比較的高齢となってもプレーを楽しめる。自分の年齢よりも低い打数で1ラウンドを終了(エイジ・シュート)した者は、「エイジ・シューター」と呼ばれ、ゴルファーの尊敬を集める。

ホールインワン(1打でカップに入れること)の達成者はゴルファーの羨望の的となる。アマチュアゴルファーがホールインワンを達成した場合には、記念としてゴルフ場の記念植樹やパーティーなどを開く事が慣習になっているために、その出費に備えて、ホールインワン保険に加入する者もいる。一方、日本のみ、プロの試合でホールインワンを達成すると、達成した選手に特別賞のホールインワン賞(賞金・賞品)が贈呈される。

普通にプレイしようとすると、用具代やプレイ代、会員権などの費用がかかりがちなスポーツであり、経済的余裕がある者が主に楽しむ競技である。

日本では全般的にプレイ代、会員権などの費用が高額だが、欧米には高級名門ゴルフ場以外にも、パブリック式の比較的低廉な費用でプレイを楽しめるゴルフ場も多い。
このため、日本では純粋にスポーツとして楽しむというよりも、主に業務での取引先企業などの接待が絡んだゴルフのプレイも数多く行われる。またいわゆる名門クラブの会員資格は、プレイではなく投機の対象となる事が多い。
日本においてはプレイヤーはプレイごとゴルフ場利用税が課される。ただし国体の試合や未成年者は免除される。

歴史
イギリス発祥の紳士のスポーツとして知られるが、その起源についてはスコットランドを筆頭に、オランダ、中国など世界各地に発祥説があり、定説がない。

北欧起源の「コルフ」という、「打った球を柱に当てるスポーツ」が、スコットランドに伝わったとする説。
オランダの「フットコルフェン」から来ている説。近年、オランダからスコットランドへのゴルフボール輸出書類が発見され、起源として有力視されるようになった。
中国の元の時代の書物「丸経」に記載されている捶丸(ついわん)という競技を起源とする説。捶丸については、中国の学者が五代十国の時代にまで遡るという説を出している。
初期のゴルフでは現在のような整備されたコースはなく、モグラの穴を利用してゴルフを楽しんでいたといわれる。またスコットランド地方でゴルフという競技が確立した頃は、パーという概念は存在していなかった。何故なら2名のゴルファーが1ホールごとにホール内での打数により勝ち負け(同じ打数の場合、そのホールは引き分け)を決め、18ホールまでにどちらが多くのホールで勝ったかを競うマッチプレー方式で行なわれていたため、それぞれのホールに規定打数を決める必要が無かったからである。
逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚

マッチプレーは2名で競技する場合はホールごとに勝ち負けが決まるため単純明快だったが、より多くのゴルファーによる試合では優勝者を決めるまでに18ホールの試合を何回も繰り返す必要があり、やがて多人数で競う場合には順位付けがし易い、予め定められたホールをまわった時点の打数(ストローク)の合計を競うストロークプレー方式が広まるようになった。ストロークプレーが主流になると、それまでコースごとにまちまちだった18ホールの合計距離などに対し、画一した規格を決める必要が出てきたため、全てのホールに対し既定打数を決めて、コースごとの合計既定打数による比較がし易いように定めたのが、パーの起源である。